17 10月 主役は「土」。いい牛蒡ができたら土のおかげ。賛辞をもらったときは「いい牛蒡だったってよ」と土に語りかけます
GO ganic PEOPLES! #02
有限会社 はんだ / 代表取締役 反田 孝之さん
写真・文 / 戸田 耕一郎(GO GOTSU.JP編集部)
「子供たちの未来のために、豊かな自然環境と安全安心な食の確保を。」をスローガンに掲げ、有機農業を実践する生産者とオーガニックな食や暮らしのあり方を提唱する民間の有志メンバー、それらをとりまとめる江津市農林水産課。仲間づくりや有機農業を目指す人材の発掘、オーガニックに対する意識醸成といった啓発活動を三者で手を取り合って進めていく有機農業推進プロジェクト、それが『GO-ganic』(ゴーガニック)だ。
GOGOTSU.JP編集部ではこのプロジェクトの中心的な役割を担い、啓発活動を続ける方々のお話をお聞きし、連載としてお届けします。題して『GO▶︎ganic PEOPLES!』。第3弾は桜江町の「自然栽培のごぼう」で有名な反田孝之さん。2004年に生産者として江津は桜江で起業。5年後に自然栽培の世界を知り、理にかなった考え方に共感。以降自然栽培という方法論で牛蒡や米、大豆を栽培するが「僕がやっている農業にこれが正解というものはない」と言い切る。桜江にあるオフィスでお話を伺った。
僕の解釈は『自然界に聞く』こと。有機肥料だろうが化学肥料だろうがそんなに変わらんよ、と。それよりも入れる量が問題なんだということ。(反田さん)
反田孝之さん(有限会社はんだ 代表取締役。以下反田さん)は桜江町に圃場を持つ。Uターンして農業を始めたのは2004年なので今年でちょうど20年。主に手がけているのはごぼう、大豆、お米。これまで一貫して養分供給という概念を持たない「自然栽培」を徹底し、自然栽培農産物及び有機栽培農産物の生産を行ってきた。農薬・化学肥料はもちろん、堆肥や有機肥料も使わない。圃場に入れるのは、圃場内で発生した作物由来の残稈(ざんかん)や藁などのみ。水田を乾かして畑状態にし、数年程度畑作物を栽培した後に再び水田にもどすことを繰り返し行う「田畑輪換(でんぱたりんかん)」も可能な限り行わない。種は自ら採取し、土の自然な遷移を見守り、土と種が馴染んでいくことを目指す手法をとっている。ここまで聞いただけでも「どんな味がする作物なんだろう」「食べてみたい」と思ってしまう。自然栽培とはどんな農業ですか?というド直球な質問をちょっと外して、「反田流農業とは?」という言葉からはじめてみた。
「人間がアタマで考え、人間の都合で『いいんだろう』という農業が多く、そうやって頑張っている人が多いわけですけど、『自然界がいいというものを作っていこう』というのがうちの考え方です。わかりやすくいうと『菌』なんですよ。菌が世の中を支配しているんです。『菌の意思』で自然界はまわっていると言ってもいいくらい。
頭の中をちょっとシフトして、その菌がいいよっていうものをつくっていこうという考え方です。菌が嫌がるのは肥料を使うこと。有機農業においては国が肥料についてもガイドラインを定めているわけですが、肥料の中でも有機肥料と化学肥料がありますよね。そこでは化学物質はやめましょうよと言っています。でも自然界、つまり菌に聞くと、有機肥料だろうが化学肥料だろうがそんなに変わらんよと。それよりも入れる量が問題なんだよと。だから稲の苗の一部にわずかに使ってますが、あとはすべてゼロでやっています。」(反田さん)
反田さんに言わせると国が定めている有機農業の定義やガイドラインは自然栽培のことを指している。そうは言っても普及するには難しいことも多々ある。その代表が肥料使用の是非だ。肥料を使わずに育てるためにはよっぽど上手くやらないとならないし、年数がかかる。だからガイドラインでは、仕方のない場合に限って有機肥料の使用を認めている。ただしその基準が漠然としているし、使用量についての規制がない。
2020年の国際統計では、欧州での有機農業普及率は10%を超える国も多くあるが、日本の有機農業の面積割合は0.3%。ここからなかなか伸びていかない。それでも農林水産省は「みどりの食料システム戦略」を掲げ、2050年までに有機農地の面積割合を25%までに伸ばすと発表している。
「有機肥料は簡単に効きませんし、使用量の規制がないからたくさん使う羽目になる。そもそも始めから使うことを前提としている。それは本来有機農業にあるべき理念からかなり外れてしまったものになっていると思ってるんですよ。」
反田さんは「本来の有機栽培はなくなってしまうのではないか」という危機感も持っており、現状の有機農業の定義については少々歯痒さを感じている。
「僕がやっている自分の農業は肥料で言えば一般的に10投入するところを本当はゼロ、ゼロじゃなくてもせいぜい1とか2くらい。それが僕にとっては有機農業だと思うんですよ。農業に興味がある人にこの話をしても『なんだ、減らすだけなの?』と思うみたいですけど、入れる量を減らすというのが実はとても深いことなんですよね。」
反田さんは建設業界出身で2004年に農業に「転職」した。自然栽培という世界を具合的に知ったのは農業を始めて5年目のときだった。きっかけは建設業界にいた頃から過敏症とも言える体質でコンビニにあるようなものを食べると胃腸の調子が悪くなることなど日常生活から「食べものは大事なんだ」という意識を身をもって感じるようになったからだという。
「大手のシャンプー会社の社員が自社のシャンプーを使わない(なぜなら粗悪な商品だとよくわかっているから)とか、そういう話ってよくありますよね。ああ、世の中の経済というのは環境とか人の健康を多少蝕みながら回る、回らざるを得ないという仕組み、存在なんだというようなことを大学時代に感じたんですよ。なんという世界なのか、どうやってこの人間界をこれから先生きていけばいいのだろうと。ただ、よくわからない世界だけど、自分自身少しでも真っ当に生きていきたいということだけははっきりしていましたね。そうか、それならよい食べものを作ればいいんじゃないのと思ったんです。28歳のときまで玄米と白米の区別もできなかった自分でしたけどね(笑)。」
そのようなきっかけから農業を志した。先の有機農業普及の実態で言えば「なにかおかしい、真っ当ではないことがある」と感じてしまう背景にはこの感覚があるからだろう。また、新規就農事業として「農家ビジネス」が成り立つのかといった起業センスもそれなりに必要なはずだが、そこはどうやって進めていったのだろうか。
「この間、中学生の息子に学校から『将来なりたい職業は?』というアンケートがあったんです。それを聞いた僕は『そんなもん書くな書くな』って言ったんです。そんなもんわかるわけないじゃないかと。『ビッグになりたいって書いとけ』って言ってね。 それは実は僕が子どもの頃にそうだったからなんですよ。大学生になっても『ビッグになる』とか『王になる』なんて言ってましたからね。好きなようにやりたいように生きるとだけはわかっていました。あれ、質問なんでしたっけ?(笑)。そうそう、農業ができるのかできないのかとかその話ですよね。『俺の手にかかればできるよ』とかそんなもんですよ。」
楽観的である性格であることは言わずもがな。それ以上に20代の頃は自分に自信があったようで聞けば建設業に関わっていた25歳からの数年間、思った以上に仕事の手応えを得られたことが大きかったという。桜江出身であったことからこの土地で農業をやることを決めてUターンしたその直後に桜江(旧桜江町)と江津が合併(平成16年)した。当時の桜江町から農業起業の誘いを受けるタイミングも重なった。農地はもちろん農業機械も揃えてやる、と。できる条件が段々と揃っていく。一方、この地域で有機農業に取り組むにあたって土壌や天候、栽培環境など様々な条件を考えたときにどのような印象を持ったのだろうか。
「どの場所でやっても一緒なんでしょうけれども、やっぱり農業って自分の城の中、例えばハウス栽培ですよね。それならいいけど、僕みたいな露地でやりたい人間にとってはあまり周りに農業者がいない方がやりやすいだろうとは思っていました。島根西部や中部、江津なんてそもそも農業が盛んではない地域ですから運が良かったと思いますね。隣の邑南町なんかでやったらとりあえず袋叩きに合いますね。周りの目、ですよ。やり手の農家がいっぱいいたらまあ、僕なんかはいろんなことを言われるでしょうね。それがここだったら農業やる人自体がいないので、34歳の若者が広い面積で農業やるって言ったらそれだけで嬉しがられるようなね。はじめは有機農業なんて言っても誰もわからないし、勇気のいる農業だなんていうおっさんもいたくらいでしたから。(笑)」
今は『土のおかげだし、洪水を恨んでも仕方ないし、まあこういうことはあるものだ』と思ってここで生きていますよ。『だからこの土地には価値がある』と言ったら言い過ぎだけど、そういう視点も持っています。(反田さん)
大きな川の流域に集落ができた歴史とともにあり続ける桜江町と江の川。切っては切れないものに挙げられるのは水害だ。ここ数年だけで見ても江の川下流域では、2018年7月の西日本豪雨と2020年7月、そして2021年8月と4年間で3回の水害があった。いずれも夏場で収穫に大きく影響するほど甚大な被害をもたらしている。反田さんの圃場がある桜江町田津も氾濫の影響で江の川と境が分からなくなるほど何度も冠水した過去がある。
▲2021年8月の豪雨翌日の松川町。江の川支流にも水が溢れ出た。(筆者撮影)
「最初の洗礼は2006年。ほぼ全ての農地が水に浸かりました。来る来るってわかってて、実際来たらすごい・・惨めでね。もう涙が止まらなかったですよ。覚悟はしてたけどこんなになっちゃうんだなってね。大変な人生になったぞと思いましたよ。
でも人間って不思議でね、4年に1回くらいの洪水ならそのうち辛さを忘れちゃうし、洪水のおかげで深い土になったわけだし、牛蒡の評価も自分が面食らうくらい評価が高いので、それで牛蒡をつくれているんだって考え方が変わってきてね。今は『土のおかげだし、洪水を恨んでも仕方ないし、まあこういうことはあるものだ』と思ってここで生きていますよ。『だからこの土地には価値がある』と言ったら言い過ぎだけど、そういう視点も持っています。洪水のないときに儲けて、あるときはじっと耐えると。(笑)」
牛蒡やお米、大豆などの出荷についてだが、反田さんは古いお客さんを大事にし、優先順位を考えるやり方を続けている。出荷先は東京と県内が半々くらいだという。現在牛蒡の作地面積は0.4ヘクタール前後、生産は年間8トン9トン前後だ。(※編集部注:1ヘクタールは100m x 100m)2ヘクタールで年間最大で20トンの収穫があった時期もあったという。全体の耕地面積は最大のときから5分の1になったというが、水害対策や継続性のことも考え、現在に至っている。牛蒡3割、米3割、大豆3割、れんこん少々といったバランスだ。
自己評価はしづいらいところだが、はんだ牛蒡の評価についても聞いてみたい。聞けば有機栽培の頃は「腕の見せ所」があるという。土壌分析を行い、どんな肥料をどんな風に使い、様々な知識や情報、技術を駆使して特別な作物をつくり、さらには評価を得る。しかし自然栽培の世界にはそういった「テクニック」が存在しないという。「いかに土にとっていらんことをしないか」が反田さんの基本ポリシーだ。
「これはいるのかいらないのか?」「これは許容範囲なのか?」「これをやったら土に怒られるのかな?」とあれこれ考える。その結果主役は完全に「土」になる。いい牛蒡ができたとしても、「これは土のおかげ」と考えるようになった。牛蒡に対してこれ以上ない賛辞をもらうこともあるが、そのときは土に向かって「いい牛蒡だったってよ」と語りかけるという。「ちょっと気障(キザ)だけど」と反田さん。それくらい感謝と愛着を持って土と暮らしていることが話を聞きながら伝わってくる。「僕がいるのはそういう世界」で、このような気持ちは自然栽培をやってから芽生えた感情である。
GO-ganicでやっていることは「給食米をつくって提供していくこと」。ただちょっとしらけて見てしまう一面もある。有機栽培の牛蒡を食べたら具合が悪くなってしまった人もいた。有機栽培って一体なんだろうと。(反田さん)
GO-ganicでの反田さんの役割は地元の給食米をつくって提供することだ。
「有機農業推進協議会だけではアイデアが枯渇したりしますしね、有機農業を推し進めるならこれからは消費者や流通、いろんな世代やいろんな職業の人たちとも関わっていこうというのは以前から農林水産課とも話し合っていました。単純に異年齢とか異業種の人たち集まって話し合ってる方が楽しいじゃないですか。やっぱりこういうことは楽しくないとね。
特に子育て世代のママさんたちが楽しく参加してもらうこともすごく大事ですよ。それを見る子どももきっと楽しく思えますからね。そういう意味では官民一緒になってできるこういう機会はとてもいいものだと思っています。農場に子ども連れてイベントやったりして大人が楽しむことも大事ですよ。」
近年「オーガニック給食」が話題だ。「未来の子どもたちによい食を提供してあげたい」と願う大人が起こす運動で、消費者や農業者、学校や保護者、そして行政含め官民一体となって活動している事例も増えてきた。東京都武蔵野市は先進事例としてこの運動をリードしている存在といえる。 40年以上前に一人の母親と一人の栄養士が声をあげたことに始まったとされ、2010年には「武蔵野市給食・食育振興財団」を設立し、地場産の野菜を積極的に取り入れながら活動を進めていく。2021年に新設された調理場では今日現在、市内の中学校(6校)と小学校(2校)の計86クラスに約3,000食を日々提供している。手作り調理と和食中心の献立が特徴だ。事例発表なども行なっており、全国から視察が訪れる。
有機素材の扱いについて、この武蔵野市はまだほどほどだが、全国の中には有機の素材を使うことを第一義に目指しているところもある。反田さんはこの動きに少し違和感を感じているというが、それは実体験からきたものだった。
「僕が自然栽培を始めたきっかけは、ある過敏症の人との出会いだったんです。うちの有機栽培の牛蒡を食べたら具合が悪くなってしまった。「できれば有機肥料は使わずに化 学肥料を使ってほしい。その方が食べられる。」 と言われてわけがわからなくなりました。有機栽培って一体なんだろうと。自然栽培に出合って学ぶうちに、環境や健康にとって大事なのは、使う資材の種類ではなく、使う量なのだということを知ったんです。つまり農薬だろうと化学肥料だろうと有機肥料だろうと、たくさん使えば問題で、少なければ少ないほど良いということ。だから有機栽培でも堆肥や肥料をたくさん使っていれば、そうでない慣行栽培の方が「まっとう」だということが普通にあるんです。」
農薬を使った農産物にある本質的な問題は撒まかれた農薬自体にあるのではなく、「農薬の力を借りないと収穫まで至らない生命力の弱いものが口から入ってくる」ということにある、というのが反田さんの見立てだ。
「人類は200万年かけて、途中で淘汰されずに生き残ったものだけが口に入るという自然界のセーフティネットの中で進化してきた。そう考えると農薬の代わりに防虫ネットで防ぐことの価値が微妙になるし、そして農薬よりも、病気や虫を呼ぶ肥料の方がよっぽど問題だということになる。そしてつい大量に使いがちな有機肥料よりも、あっさりと化学肥料で育てる方がマシということなる。こんな捻れができるのは、使用資材の定性的視点のみの縦割りガイドラインしかないからだと思います。」
オーガニック給食という企画そのものではなく、オーガニックと謳うこと、それが安心安全だという行き過ぎた絶対的な信仰のようなものに異を唱えたい感覚なのかもしれないと感じた。安心安全を追求した時に定義される国のガイドラインにどうも違和感を感じてしまう反田さん。この腑に堕ちない感覚が今日の反田さんの仕事のモチベーションになっている。でもそれは真剣に、真っ当に、試行錯誤を繰り返しながらも未だ完璧解に到達できていない反田さんだからこそ、言えることでもあるはずだ。
僕らのようなちょっと変わった人間がある程度いたほうが社会全体の均衡がとれると思ってるんですよ。(反田さん)
「この先の話ですか。今のこの規模を維持した上でこの経営を持続させること。20年続けてきたと言いましたがベターな管理しかできていないけどいろいろな多方面との繋がりはできたし、まだまだ自分の予期せぬ面白いことがあるのではないかと思っていますね。世の中の役にたつことが起こってくると思ってるんです。 最近ね、芸能人にも味噌づくりやったり、そういうYouTuber多いじゃないですか。
この間、朝比奈彩(ファッションモデル・タレント)さんがうちの大豆を取り上げてくれたりしてね。今年からよく使われたりしてるんですよ。上戸彩とか優香、ベッキー、あと他数人知らないモデルさんだったけど、そういう人たちをマネージメントする女性がうちの大豆を気に入ってくれたりしてね。素晴らしい大豆ですねって言われて内心『他とどう違うかよくわからないんだけど。』って思ったりしてましたけど。そういうタレントが『手の菌が美味しくするんですよ〜』とか言ってね。啓蒙活動ってことを考えるとこりゃ面白いわって思いましたもん。」
反田さんにとっての農業の面白さは「食べものをつくることと仕事が一致したような生き方が楽しいこと」にあるという。生きていくために必要な食べものを自分で作り、それが仕事となっていること。反田さんの農業には「絶対こうなる」という答えがなく、天候や水、虫など様々な自然環境の中で予測不可能なことが常に起きるという現実。デジタル思考が行き過ぎれば「こうなるべきものがそうならない」となれば、現代人は驚き慌てふためいてしまう。商品に欠陥があればすぐにクレームを入れる、ちょっと調べて物事をわかった気になったり、行ったことのない場所に行った気になってしまう、コスパの次にはタイパ(タイムパフォーマンス)思考。すぐに答えを求めてしまう傾向にあること。
情報化社会が進めば進むほど、人間本来が持っていた五感が退化してしまうという危うさ。昭和的ノスタルジー思考と言われてしまえばそれまでだが、土とともに生きることを生業とする反田さんからすれば現代社会からは大きな気づきを得ることができているのだという。
「ほとんどの人は種を蒔いて芽が出なかればおかしいと思うでしょう。それがお金を出した商品なら文句を言ったりもするでしょう。でも僕はおかしいなんて思わない。それが自然だから。そんなこともあるでしょうと。生きものの世話をする僕らは常に予測不能の中で生きているんですよ。それを日常生活に取り入れる視点というのは現代人としては大事じゃないかと思うんですよね。だから僕らのようなちょっと変わった人間がある程度いたほうが社会全体の均衡がとれると思ってるんですよ。(笑)」
(完)